団塊ジュニアおひとり様のひとり言

50代未婚。田舎の実家に高齢の両親を残し、都会で独り暮らししながら運送会社に勤務。年収300万円未満。近い将来親の介護で離職してたちまち貧困に陥るのではないか、あるいはもっと先には誰にも看取られず寂しい孤独死が待っているのではないかと常に不安を抱いている団塊ジュニア世代。

団塊ジュニア世代の受験戦争

僕は1971年生まれの、世間でいうところの団塊ジュニア世代だ。

 

僕が生まれた昭和46年の出生数は200万0973人で、この年から昭和49年(1974年)まで4年連続で200万人を突破した。

 

この4年間を第2次ベビーブームというらしい。

 

僕は人口が少ない、それこそ地平線のはるかかなたまで田園風景が広がっているような北陸地方扇状地平野にある地方都市で生まれ育ったが、僕の子供のころには新しい住宅街がどんどん造成されて、新しい学校が次々と建設されていった。

 

小学校の6年間で3回も学校の分割によってクラスメートと離れ離れになるという経験もした。そして、分割して別れた学校がさらに分割なんていうこともあった。

 

子供の人口が減少して統廃合が進んでいる現代の学校事情とはえらい違いだ。

 

人口が少ない北陸の地方都市の学校でも一クラスの人数は常に40人以上で、どの学年も4クラスか5クラスあった。

 

分割がなければ10クラスを超えていただろう。

 

もちろん、校舎に入りきらないから分割されたのだが。

 

小中高どの学年に進んでも、まだ創立されてから5年もたっていないような学校で、どこも校舎がピカピカだった。

 

中学の時はピカピカの校舎にさらに増築しなければ教室が足りない事態にまでなったほどだった。

 

発展とは裏腹に地平線のかなたまで広がっていた田圃はどんどん埋め立てられて、毎年楽しみにしていた蛍の群生が見られなくなった。

 

バッタやカブトムシを捕まえていた草原や河川林もなくなって道路や家が建ち、川はコンクリートで固められて、ただの水路に変わってしまった。

 

日本海側の一地方都市でも、そうやって町はどんどん発展し、現代ではシャッター街と化している商店街やスーパーも昭和50年代のあの頃は活気にあふれていた。

 

地方の田舎にまで活気をもたらした僕ら団塊ジュニア世代だが、人口ボリュームが多いということはライバルも多いということで受験戦争は熾烈だった。

 

高校も大学も受験勉強は厳しく、僕の母親や周りの友達の母親も教育熱心な人が多く、みんないつもプレッシャーを感じていた。

 

友達たちは当時発売されて間もないファミコンドラクエなどのゲームソフトは取り上げられ(僕はドンキーコングというゲームウォッチしか買ってもらえなかった)、あのころの僕は母親との口論が絶えなかった。

 

僕の周りでは親への反発から、かえって勉強しなくなって成績を下げる者も多かった。

 

かと言ってスクールウォーズ尾崎豊の「卒業」の歌詞のように学校のガラスをバットで割ったりするようなやつもいなかったが。

 

そうやって大学受験を迎えたが、一年目は惨憺たるもので、4校だか5校だか受けた気がするがすべて駄目で浪人してしまった。

 

バブル絶頂期のころで親もお金があったのか、何とか地元の予備校に通わせてもらった。

 

時代を反映してなのか、1990年という年は予備校生を主人公にした「冬物語」や「予備校ブギ」といった漫画やドラマがヒットしていた。

 

ためしに僕が受験した1990年の不合格率を調べてみると、ホームページによって微妙に違うのだが、おおむね44%~48%で、二人に一人は浪人していたようだ。

 

だから仕方がないとは言わないが、一浪して入学した三流大学時代に住んでいたアパートの同学年の、僕を含めた15人中9人が一浪で、二浪も一人いたから、現役合格はスポーツ推薦も含めて5人しかいなかった。

 

それが今では受験者数は変わらないのに不合格率1割以下ということだから、いかに僕らの時代の受験が厳しかったかがわかる。

 

これだけ厳しい競争を戦ってきたのに、2年後にバブルは崩壊、卒業のころには就職氷河期が訪れようとは、何の罰だよ!

 

それでもこのころ知り合った大学の友達の何人かは、全国に散らばってしまったが卒業してから30年経とうとしている今でも連絡を取り合っている。

 

あの頃の思い出が人生一番の宝である。