団塊ジュニアおひとり様のひとり言

50代未婚。田舎の実家に高齢の両親を残し、都会で独り暮らししながら運送会社に勤務。年収300万円未満。近い将来親の介護で離職してたちまち貧困に陥るのではないか、あるいはもっと先には誰にも看取られず寂しい孤独死が待っているのではないかと常に不安を抱いている団塊ジュニア世代。

明治は遠くになりにけり

昭和46年(1971)生まれ、団塊ジュニア、お一人様。

 

今日も愛知県の片隅で細々と生きています。

 

ニュースで、千葉県館山市在住の明治44年生まれ(112歳)の、男性としては国内最高齢の方が亡くなり、神奈川県厚木市在住の大正2年生まれ(110歳)の男性が国内最高齢になったという報道を見ました。

 

これで国内には明治生まれの男性がいなくなりました。

 

女性ではまだ兵庫県芦屋市在住の明治41年生まれ(115歳)の女性が最高齢でご健在ということですが、明治生まれの男性がすべてお亡くなりになったというニュースはショックでした。

 

僕が子供のころのおじいちゃんおばあちゃんといったらほぼ全員明治生まれで、まだ60代くらいでした。

 

中にはギネス世界一に認定されていた鹿児島県徳之島に住む泉重千代さんのように慶応生まれの人もいました(どうも今では否定されているようですが)。

 

僕の両親の祖父母はみんな日露戦争直後の明治30年代後半の生まれでしたし、小学校の先生にもまだ明治生まれの方がいました。

 

明治生まれの方は「か」を「くゎ」と発音するからそれでわかる、まだ若い担任の先生から教えられたのを覚えています。

 

確かによく注意して聞いてみると運動会を「うんどうくゎい」と言っていて、おもしろかったです。

 

明治生まれのその先生は、他にも高校の事を高等学校と言ったり、古めかしい話し方をしていた記憶があります。

 

僕が小学校低学年まで住んでいた家の近所に、そのあたりの田んぼのほとんどを所有している大地主の豪邸があり、そこに住んでいるおばあちゃんは、よその子供でも悪さをするとすぐに雷を落とす怖い人でした。

 

このおばあちゃんが住む豪邸の広い庭には錦鯉を飼っている大きな池がありました。

 

僕はあるときその庭に勝手に入って錦鯉にパンくずか何か餌をあげていたのですが、それをおばあちゃんに見つかって、こっぴどく叱られました。

 

勝手に庭に入ったことを怒られたのか、鯉に餌をあげたことを怒られたのか、今では忘却の彼方ですが、自分がすごく泣きじゃくったのだけは覚えています。

 

でも、ただ怖いだけじゃなくて、たまに近所の子供たちを招いてお菓子をくれたり、正月には近所の人たちを餅つきに呼んでくれたりと、地域をまとめる地主さんとしての役目も果たしていました。

 

僕の母方の祖父もタバコをやめて貯金したお金を役場に寄付して表彰されたりしていました。

 

他にも私財を投げうって学校を建設したり、堤防を築いたりした人もいて、明治生まれの人たちは個人の利益よりも公共の利益を優先する人が多かったように思います。

 

また、僕が小学生のころは太平洋戦争の終戦からまだ30年ほどだったから、戦争体験者の話を聞く機会もたくさんありました。

 

特に夏休みが近づいてくると8月15日の終戦の日に合わせて学校で戦争に関する授業が多くあった気がします。

 

毎年夏休み前には原爆の悲惨さを描いた「はだしのゲン」や、沖縄から疎開する子供たちを乗せた船がアメリカの潜水艦に撃沈されて、たくさんの子供たちが亡くなった悲劇を描いた「対馬丸」といったアニメ映画の上映会が恒例行事になっていました。

 

そして夏休み中におじいちゃんやおばあちゃんから戦争の話を聞いてくるように先生から言われました。

 

僕の母方の祖父母の家は新潟県の八海山という山のそばにあるのですが、毎年夏休みに帰省した時には仏壇に飾ってある軍服姿の若い男性の遺影に手を合わせました。

 

その写真の人が僕の母親の叔父にあたる人で沖縄で戦死したことや、戦争中に長岡市が空襲されて、その方角の山の向こうの空が燃える炎で赤く染まって見えた話などを聞かされました。

 

長岡市連合艦隊司令長官だった山本五十六の出身地だったので空襲されたのだろうという話でした。

 

他にも母方の親戚の中には中国で戦死した人もいたという話も聞きました。

 

また、僕の父が勤めていた会社の先輩にも明治生まれの人がいて、父の事をかわいがってくれて何度か家に遊びに来てくれたりしました。

 

その方は戦争中は広島県呉市にある海軍のドックで軍艦の修理などをしていたそうで、呉港が母港である戦艦大和の修理にも携わったことがるそうです。

 

昭和19年のレイテ島沖海戦で敗れ、日本海軍が事実上崩壊した後にぼろぼろの状態で母港に帰ってきた戦艦大和は魚雷をどてっぱらに何発も受けて穴だらけで、傾いた状態だったという話を聞いて、当時宇宙戦艦ヤマトに夢中だった僕はショックを受けたのを覚えています。

 

死と隣り合わせの戦争を体験し、戦後の復興や高度経済成長といったまさに激動の時代を生き抜いてきた明治生まれの人がいなくなってしまったというのは、時代が一つの節目を迎えたという感じがして感慨深いものがあります。

 

僕も50歳を超え、僕の小学生当時でいえば大正生まれの人たちと同じくらいになってしまったのだという考えに至り、少なからずショックを覚えます。

 

今の小学生くらいの子供たちも昭和生まれの僕たちを、僕が明治大正生まれの人を見ていたのと同じ感覚で見ているのでしょうか?

 

昭和が終わってからもすでに40年近く経ち、諸行無常を感じる今日この頃です。